<育児日記4月16日>

 下界一周年記念というよく分からない記念で、久しぶりに休暇の取れたベスパと一緒に、蛍とパピリオを連れて遊園地へ行って来た。はしゃぎ回るパピリオも、それに半分振り回される形の蛍も楽しんでもらえたようで何よりだ。そのお子様の行動力に俺とベスパはへとへとだったのだが・・・。ちなみにベスパはもうしばらくこちらにいられると言うことで、2,3日パピリオと一緒にうちで過ごすことになった。それを聞いた時の、蛍とパピリオの喜びが思い起こされる。


 

 P.S. 蛍とパピリオは寝かしておいたからね、義兄さん。


 

宝珠師横島 〜The Jewelry days〜  


第4話 『乙女たちのユーウツ・蛍と家族』


 

(氷室キヌ)

「・・・ふぅ」

 ため息が漏れる。

 帰ってきた横島さんは前よりも・・・いえ、はっきり言っちゃうと前とは比べものにならないほど魅力的です。もちろん元々魅力はあったんですけど、それよりもセクハラや情けないところが目立ってしまい、よほど注意深くつきあってみなければその魅力に気づくことはなかったと思います。

 でも今の横島さんは違います。

 以前のようなセクハラや情けない行動は完全になりを潜め、隠れていた優しさがはっきり見えるようになりました。しかも以前にはなかった落ち着きや包容力も見られ、『大人の男性』という雰囲気が滲み出ています。

 さらに昔のようなよれよれのシャツにジーパン、ジージャン、バンダナと言った格好ではなく、落ち着いた色合いのシャツやジャケットを着るようになったことが、さらにその雰囲気をかき立てているようで・・・ちなみにトレードマークだったバンダナはリストバンド代わりに左の手首に巻かれています。

 やはり蛍ちゃんの影響が大きいと思うんですけど・・・とにかく今の横島さんは魅力的なんです。

 それはそれでいいと思うし、格好いい横島さんは見ほれてしまうほどなんですが、当然弊害があります。


 はっきり言います。もてます。



 前に週刊誌で結婚してから急にもてるようになる男性がいるという記事を見たことがありますが、まさにその状態です。

 前に横島さんに頼まれて、幼稚園まで蛍ちゃんのお迎えに行ったとき、保母さんはおろか若い他のお母さんにまで露骨に探られるような目で見られたのには、冷や冷やしました。どう見てもあれは横島さんに熱のこもった視線を向けているようです。町を歩いていても振り向かれることが多いし・・・大抵、蛍ちゃんを連れているので声をかけられたりすることはないのがせめてもの救いです。

「横島さんのバカ・・・」

 正直悔しいです。

 幽霊のころから一緒にいて、横島さんの魅力に最初に気づいたのは自分だという自信があります。隠された魅力に気づくほど私は横島さんの近くにいたのだと。

 それなのに横島さんが変わってから、やっと魅力に気がついた人なんかが、さも当然のように横島さんを見るのが許せません。

(わたし、やな娘だな・・・)

 もちろんそれが自分勝手な思いだって事は分かっています。それでも・・・

(蛍ちゃん、いいな・・・)

 蛍ちゃん。横島さんの娘。

 横島さんの娘だったらいつも横島さんの側いることが出来ます。

(横島さんと手をつないで、横島さんとお風呂に入って、横島さんの背中を流してあげて、寝るときに絵本を読んでもらって、横島さんの腕枕で眠って、それで『将来はお父さんのお嫁さんになる!』なんて・・・きゃーきゃーきゃー!)

 ダメです。なんだか幼児退行してます、私。

 そうです、別に私は横島さんの子どもになりたい訳じゃなくて、むしろ蛍ちゃんのお母さんにって・・・

(それで蛍ちゃんからはママって呼ばれて・・・ってきゃーきゃーきゃーきゃー!!)


「・・・!・・・ろ!ミス氷室!」


「え?・・・はっ、はいっ!」
「今のところちゃんと聞いていましたか?」
「いえ・・・その・・・」
「ちゃんと聞いていなければいけないでしょう。ぼーっとしていては困りますよ」

 恥ずかしさのあまり縮こまる。

「はい・・・すみません」

 顔を赤く染めて、謝るしかありませんでした。








 

(弓かおり)

 最近、氷室さんの様子がおかしい。

 ぼーっとしていることが多いですし、急に沈んだり浮かれたり顔を赤くしたりしてます。もともと妄想癖があったようですが、それにしてもあの氷室さんが授業中に当てられても気づかないとはよほどのことですわ。それでも2年ほど前の時よりは大分マシなんですけれども・・・。

「まったく、氷室さんもあんな方のどこがいいのかしら・・・」

 彼女がこんな風になる原因は『彼』以外にはあり得ないと思う。

 正直、あんな男のどこがいいのか理解に苦しみます。それでも『彼』が失踪した2年前、氷室さんの沈みようは目も当てられなかった。それは見ている方が痛々しくなるほどでした。そのときに比べれば、今回の百面相は遙かにマシです。

 それにもうひとつ気になることがあります。

『氷室キヌさんは子持ちの男性と不倫をしている』

 分別のあるものなら一笑にふしてしまうようなうわさ話です。わたくしだってそのあまりの突飛さに、あきれてしまいました。

 しかし実際に氷室さんが子どもを連れた男性と一緒にいる所を見たという人が現れました。

 心ない人がそう言ったのなら怒りをあらわにしているところですが、目撃したという女生徒はそんなことを言う人ではありませんでしたし、しっかりとした判別を持っている人だったので、ただのうわさ話と決めつけるわけにはいかなくなりました。

「だからってこんな事する必要があるのかよ?」
「うるさいですわね、静かにしないと氷室さんに見つかってしまうでしょ。それにあなたはこのまま氷室さんにあらぬ疑いをかけておくおつもりですか!」
「いや、それならなんで直接おキヌちゃんにきかねえんだ?」
「そ、それは・・・ほら早く行かないと見失ってしまいますわ」

 相変わらず短絡的な思考の一文字さんには困る。

 そう、よけいな混乱をまねくうわさ話を確かめるのは、クラス委員として当然の義務だ。わたくしがやらなくてだれがやるというのだ。

「まあ、アタイも気になるっちゃ気になるんだけどね」
「そ、そうですわよね」
「おキヌちゃんがそんな事するわけはないだろうけど・・・」

 そんなことは言われなくてもわかっています。しかし・・・

「でもなんでこんな方に来るんだろうな?」

 そうなのです。今氷室さんが歩いているのは彼女が住んでいる美神おねーさまの事務所とは違う方向なのです。

 最近、ときおり一緒に帰ることを断り、いつもとは別の方向に帰って行く氷室さん。どうしてと聞いてもはぐらかされるばかりでいっこうに答えを得ません。ならと一文字さんと共に、今こうしている訳なのですが・・・

「やっぱ、あの横島っていう人のとこに行くのか?」
「・・・わかりませんわ」

 時折、顔を赤めながら歩いている彼女の手には、先ほど入ったスーパーの袋が握られています。

 きっと、あの貧乏そうな横島という青年の家に行くのですわ。クラス委員としてはあまりお勧めできないことですが。

 そうこうしているうちに、氷室さんの足が一軒の家の前で止まる。

 少々古いけれども、しっかり手入れがされていることが分かる、なんだか暖かい雰囲気の家。

 しかしこの家にあの貧乏そうな男がいるとは思えない。

「まさか・・・な?」
「そ、そうですわ・・・」

 こそこそと塀の陰に隠れながら、一文字さんと顔を見合わせる。

『ぴんぽーん』

 チャイムの音にびくっと身をすこませる。

 ほんの少しの間。知らずにわたくしと一文字さんのノドがごくりとなる。

 そして扉が開かれ、中から出てきたのは一人の女の子でした。その女の子に氷室さんが何か言っています。ここからではよく聞き取れませんが、そのあと幼女が家の中に向かって上げた声は聞き取ることが出来ました。

『ぱぱ〜!』

 びくりと心臓が跳ね上がる。

「そんな・・・」
「オイオイまじかよ・・・」

 中から出てきたのは、空色のシャツにデニムのエプロンを掛けた、20過ぎと思われる落ち着いた優しそうな男性でした。

 その男性に促されて、女の子・・・先ほどの言葉からして娘さんでしょうか・・・と氷室さんは家の中へと吸い込まれるように消えて行きました。

 そうして残されたわたくしたちは、しばらくの間、開いた口を閉じることさえ出来ませんでした。


 

「・・・・これは由々しき事態ですわ」

 放課後、教室の一角で一文字さんと顔をつきあわせる。おキヌちゃんは今日も用事があるからと言ってそそくさと帰っていった。

「まさか噂が本当だったなんてなぁ〜」

 脳天気そうな声で言う一文字さん。しかし彼女の浮かべる表情はどれも引きつっていて、未だに事態が飲み込めていないようです。

「それで弓、どうすんだよ?」
「ど、どうするって言われましても・・・」

 わたくしも何か名案があるわけではない。第一そもそも別に氷室さんが悪いことをしているわけではないのだ。もちろん不倫などと言った不義理な事を黙って見過ごすわけにはいきませんが。

「ふっふっふっ・・・聞いたわよ〜かおりぃ」
「き、鬼頭さん!」

 後ろから急にかけられた声に振り向く。そこにはクラスメイトの鬼頭桐歌(きとうきりか)さんと三之院まゆみ(さんのいんまゆみ)さんが立っていました。

「まさかあのおキヌちゃんがねぇ〜」
「き、鬼頭さん!盗み聞きなんてはしたないですわよ!」
「勝手に話が耳に入ってきたのよ。だいたいこんなとこで話さなきゃいいじゃない」
「ぐぐぐぐぐぐぐ〜」

 確かにこんなところで話していたのはうかつでしたわ。

「それで、相手はどんな人だったの?」

 横にあった椅子を勝手に引っ張って座る鬼頭さん。三之院さんは静かにたったままだ。

「どうして鬼頭さんに教えなければならないんですの!」
「なによ〜いいじゃない減るモンじゃない」
「そう言う問題じゃありません!」
「なによケチ。それでどんな人だったの、真理?」
「ん?え、ええとなあ・・・」
「あなたも教えようとするんじゃありません!」

 バカ正直に教えようとする一文字さんを止める。鬼頭さんは根はいい人ですが、色恋沙汰になると口が軽くなるので油断できません。

「・・・それは5,6歳くらいの女の子を連れた、中背の優しそうなかんばせをした男性の方ではありませんでしょうか?」
「えっ!ど、どうしてそれを・・・」
「やはりそうでしたか。どうやら、前に私が見た男性で間違いないようですね」
「そういえば、おキヌちゃんが男と歩いてるのを見たのってまゆみだっけ」

 そういえばそうでしたわ。わたくしとしたことが・・・。

「それで、どんな人だったの?」
「まじまじと見たわけではないのですが、そうですね・・・年の頃は二十歳過ぎくらいだと思います。容姿は、私見ですけれど端正な方だと思います。非常に落ち着いた雰囲気で、何より本当に優しそうな感じでした」

「そうだな」
「そうですわね」

 一文字さんもわたくしも三之院さんに同意する。確かに『優しそう』というのがあの男性をもっとも的確に表した言葉でしょう。

「ふ〜ん、でも子連れだったんでしょ?」
「ええ、小学校に上がる前くらいの女の子と一緒に。年が近い気もしますが、娘さんだと思います」
「そりゃあ間違いねえぜ」
「その幼女が、くだんの男性のことを『パパ』と呼んでいたので間違いありませんわ」
「なるほどねぇ〜」

 にやにやと笑う鬼頭さん。

「いいわね〜おキヌちゃん。年上の、しかも妻子持ちの男性との禁断の恋なんてね〜」
「いいわけありませんわ!」

 鬼頭さんの物言いに思わず声を上げてしまう。

「別にいいじゃないのよ、かおり。愛に障害はつきものよ」
「それとこれとは別問題です!」
「私も妻子持ちの方はどうかと思うのですが・・・」

 分かっています。これはあくまで氷室さん自身の問題で、私達は単なる野次馬でしかありません。ですが相手の方は子持ちの男性・・・相手にも家庭がある以上、例えどういう結果が待っていようと、間違いなく氷室さんは傷つくことになるでしょう。

「とにかくクラス委員として黙ってみているわけには参りませんわ!」

 宣言する。この宣言をくじくことは誰にもさせない。

「で、どうすんだ?」

 いきなり挫折させられそうだが。

「そ、それは・・・」
「そうですね。まず第一に、本当に氷室さんがその男の方と不倫の関係にあるか確かめることが先決ではないでしょうか?今の段階でははっきりしたことは一つも分かっていませんし、それに・・・私にはとても不倫などと言った不義理なことをするような男性には見えませんでしたし・・・」
「それもそうね〜、じゃあかおり、真理・・・がんばんなさいよ!」

「「へ?」」

「『へ?』じゃあないわよ。あんたたちが調べるに決まってるじゃない。わたしはその男の顔を知らないんだし、まゆみにそんなことが出来るとは思わないしね」
「そうですね。わたしも人のあらを探すようなことは遠慮したいですし」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」

 話が勝手に進められてしまう。

「な〜に?どうにかするっていったのかおりの方でしょ?」

 にやにやという鬼頭さんを忌々しげに見る。しかし彼女はどこ吹く風。

 とはいえ先ほど自分がした宣言を反故にするようなことは出来ません。

「くっ・・・わかりましたわ」
「じゃあ何か分かったら教えてね」

 勝ち誇ったように笑う鬼頭さん。

「んじゃあ明日おキヌちゃんに聞いてみればいいんだな?」
「あなたは何を聞いていたんですか!!!」

 たまった鬱憤を晴らすように、一文字さんを怒鳴りつけました。


 

(ベスパ)

「ホタル〜!元気にしてまちたか?」
「・・・うん」

 待ち合わせ時間ぴったりに現れた蛍に飛びつくパピリオに、パピリオに抱きしめられて赤くなりながら、はにかむように笑う蛍。久しぶりの光景だ。

「よっ、ベスパ。ひさしぶりだな」
「義兄さんもひさしぶりだね」

 クリーム色のシャツにダークブラウンのジーンズ、春物のブラックジーンズのジャケットを着た義兄さんに声を返す。蛍と義兄さんに最後にあったのは正月以来だから、かれこれ4ヶ月ぶりだろうか。

「それで今回はいつまでいられるんだ?」
「いちおう4日かな。もちろん緊急招集がかからなければの話だけどね」

 魔界正規軍に所属する自分はなかなか休暇を取ることが出来ない。しかも緊急招集がかかった場合は、休暇だろうとなんだろうと戻らなければならない。自ら選んで進んだ道なのだからしょうがないとは思うが、パビリオや蛍になかなか会えないのはつらい。まあ魔界の方も最近は落ち着いているので、休暇がつぶれることはまずないが。

「そうか。なら2,3日パビリオと一緒にうちに泊まってけよ。その方が蛍もよろこぶし。妙神山には俺から連絡しとくからさ」
「そうだね・・・じゃあ義兄さんの言葉に甘えようか」

 この休暇は蛍とパピリオのために使おうと決める。

「それじゃあ行くとするか」
「そうだね」

 いまだにじゃれ合っているお子様二人に苦笑しながら、今回の目的地であるデジャブーランドへと向かう。




 

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 夕日に染まる家路を、パピリオを背負って歩く。肩を並べる義兄さんの背にも、同じように蛍が背おわれている。二人ともはしゃぎ疲れて、帰りの電車の中で眠ってしまったのを、起こすのはかわいそうと、義兄さんと二人で背負ってきたのだ。ちなみにアタシが重いほうのパピリオを背負っているのは、ただ単にアタシの方が力が強いからだ。

 無言で歩む。

 夕日に照らされた長い長い影法師。沈黙が心地いい。


 

「むにゃむにゃ・・・」

 パピリオが何か寝言を言っているようだが、何を言っているのか聞き取れない。もちろん意味のある言葉だとは限らないが。

「ふふふ・・・」
「ははは・・・」

 そんなパピリオに、どちらともなく笑いがこぼれる。

「なあ、ベスパ」
「なんだい、義兄さん?」
「明日は4人でショッピングにでも行くか?」
「ふふ・・・そうだね」

 この休暇は、蛍とパピリオのために使うと決めた。だから義兄さんの提案に異論はない。せっかくだから義兄さんに何か洋服でも買ってもらうとしよう。

 ふと思う。

 気がつけば、隣を歩く男を『義兄さん』と呼ぶようになっていた。きっかけは蛍が生まれた時の事だったが、わざわざ思い出すようなことではない。

「義兄さん・・・か・・・」
「何か言ったか?」
「いや、なんでもないよ」

 私は姉さんを殺し、『ポチ』はアシュ様を殺した。

 義兄さんに言わせれば違うと言うだろうが、アタシはそう思っている。お互いが、お互いの想い人を殺した。それはごまかしようのない事実。でもアタシは義兄さんを恨んではいない。それは義兄さんがアシュ様の本当の望みを叶えてくれたからだろう。寂しかったし悲しかったが、それだけだった。

 そして義兄さんもアタシを恨まなかった。アシュ様と違って姉さんは決して『死』を望んではいなかった・・・いや、義兄さんと共に生きたいと思っていたはずなのに、そんな姉さんを殺したのに、義兄さんは恨まなかった。どれだけ自分自身に悔恨と憎悪を向けても、アタシには決してそれを向けなかった。

 妙神山で再会した義兄さんは、修行という名をかたった自傷行為を繰り返し、夕日を見るたびに錯乱しては、死を望んだ。

 義兄さんの左手に巻かれたバンダナの下を知っているのは、アタシとパピリオ、そして妙神山の神族や魔族たちだけだ。

 自殺と自傷行為を繰り返す義兄さんを押しとどめる日々。

 尖ったものや刃物を決して目に入れさせないようにし、夕暮れ時になるまえに部屋に押し込めた。

 神経と精神をすり減らす日々が続き、そして蛍が生まれ、今こうして義兄さんは夕日の中を、穏やかな笑みを浮かべながら歩んでいる。

 この一瞬がどれほどかけがえのないものか、理解することさえおっくうになる。


 

 昼と夜の一瞬の隙間が終わりに近づく。義兄さんの家はもうすぐだ。

「むにゃ?・・・あれ、ベスパちゃん?」
「ん?おきたのかい、パピリオ?」
「いつのまにねちゃったん・・・あれ、もうこんなとこなんでちゅか」

 背中からパピリオをおろす。

「おはよう、パピリオ」

 寝ぼけ眼をこするパピリオに声をかける義兄さん。蛍が目を覚ます様子はない。

「ちょうどよかった。パピリオ、俺の右のポケットから家のカギ出してくれるか?」
「わかったでちゅ」

 両手がふさがっている義兄さんの代わりに、ごそごそとポケットをあさるパピリオ。

「これでちゅね。よし、あたちが先に行ってドアを開けといてあげまちゅ!」

 止める言葉も聞かずに猛スピードで駆け出すパピリオ。まったくカギを開けるだけの何が楽しいのか。

 義兄さんとふたりで苦笑する。

「じゃあ、俺たちも急ぎますか」
「そうだね」

 肩を並べて、残り少しの家路を歩く。一瞬の隙間は終わりを告げ、名残を残す赤い空にも、もうすぐ夜のとばりが落ちてくるだろう。


 

 今一度思う。

 この休暇は家族のために使おう。






 

(弓かおり)

「これは・・・まちがいありませんわね・・・」
「ああ・・・」

 今目にした光景。

 別に見張っていたわけではありません。『何となく』足が向いて、『たまたま』目撃してしまっただけ。しかしそうだとしても今見た光景はしっかりと目に焼き付いています。

 先日の男性とその背におわれた幼女、そしてその傍らに寄り添うようにほほえむ女性が、連れだって家に入る様子。

 実にお似合いの夫婦だとおもいます。それほどまでに三人の間に漂っていた空気は自然でした。

 しかしそんな仲むつまじい親子の光景が、私たちの心に影を落とします。

 呆然としたまま、逃げるように足早に立ち去る。これ以上、あんな幸せそうな光景は見たくありません。

 人様の家庭の不幸を願うなど、わたくしも落ちたものですわ。そんな自虐的な思いがこぼれる。


「なあ・・・どうすんだよ」


 いつも勝ち気そうな一文字さんの表情が、不安に揺れている。

 つられて不安になりそうな心を叱咤する。今自分まで不安になっても仕方がないと。それでもぬぐいきれない不安を表情に出さないように押し込める。

「こうなったら・・・氷室さんと腹を割ってお話しする必要がありますわね・・・」

 一文字さんの案を採用したようで気に入らないが、もうこうなった以上を氷室さんと面と向かって話し合うしかない。

「なんとか諦めるように説得するしかありませんわ・・・気は進みませんが・・・」

 気は進まない。もしかしたら氷室さんを傷つけてしまうかもしれない。だがそれでも、それでも・・・・

「あんな幸せそうな家族を・・・壊すことなど出来ませんわ」
「そう・・・だな・・・」

 そして氷室さんにそんなことさせてはならない。そんなことになったら、優しい彼女はきっと深く傷ついてしまうだろうから。

 週明けが・・・勝負だ。








 

(氷室キヌ)

 今日は、なんだか弓さんと一文字さんの様子がおかしい。

 二人ともなんだか思い詰めたような顔をしています。金曜の時はそんなことはなかったのに、いったい土日に何があったんだろう。

「あの〜二人ともいったいどうしたんですか?」
「氷室さん・・・」
「おキヌちゃん・・・」

 なんだかものすごい複雑な表情。しかもなんだか周りのみんなもチラチラとこちらを見ているような気が・・・。

「・・・氷室さん!」
「は、はいぃ」

 なんだか居心地が悪くなってきたところで、急に弓さんが声を上げました。思わず声が裏返っちゃいます。

「・・・今日の放課後、ちょっとつきあっていただけません?」
「へ?あの、別にかまいませんけど」

 今日は横島さんの所に行こうと思っていたけど、用事がある訳じゃないし、最近弓さんたちの誘いを何度も断っていたのでOKしました。

 それに二人の顔からすると、深刻な話なのかもしれません。

 もし二人が何かのことで悩んでいるなら、ほおってはおけないし、何か力になることが出来るかもしれません。

 でもそれでも横島さんに会えないのはちょっと残念です。


 

 三人でよく行く喫茶店『Trees(ツリーズ)』までの道を歩く。なぜか無言で。

 とっても居心地が悪いです。

 弓さんは何度か口を開きかけては閉じるを繰り返してるし、一文字さんはなんだか混乱しているみたいです。

「・・・氷室さん、こんな噂が最近流れているのを知っていますか?」

「はい?」

「ウチの学校の生徒の一人が、妻子持ちの男性と不倫をしているという噂なのですが」
「いえ、そんな噂知らないんですけど・・・それがどうしたんですか?」

 突然話し出す弓さん。一文字さんは黙ってそれを聞いています。

「その噂の女生徒とは・・・」

 最後の一言をためらう弓さん。数舜の後、決心したのか弓さんの口が開き・・・







 

「あれ、おキヌちゃん?」


 

(弓かおり)

 はっきり言います。混乱しております。

「先週でだいたいのことは終わっちゃってね。手持ちぶさたになったから、蛍のお迎えまで適当に時間をつぶそうとしてたんだよ」

 なぜでしょう?

「そうなんですか?」

 なぜこんな道ばたで、件の男性と鉢合わせになり、しかも立ち話なんかしているのでしょう?

 目の前にいる男性をまじまじと見る。

 黒のハイネックセーターに同じく黒のスリムパンツ。それだけだとただの黒ずくめですが、胸元に光る大きめの宝石のついたシルバーアクセサリーがアクセントになって、ファッショナブルな感じです。同じ黒ずくめなのにどうしてこれほど違うのだろうと、なかなか連絡の取れない男と比べてしまいます。むなしいだけですけれど。

 それと間近で見ると分かるのですが、以外に若く見えます。落ち着いた物腰や雰囲気、大人っぽい服装のせいで気づかなかったのですが、もしかしたら20歳位なのかもしれません。

「それよりも・・・」
「っといけない、もうこんな時間か。ごめん、娘を幼稚園に迎えに行く時間なんだ。おキヌちゃん、弓さん、一文字さん、それじゃあね」

 そういって颯爽と去って行く男性。

 その男性が見えなくなったところで詰め寄る。

「おキヌちゃん!」
「氷室さん!」
『どういう事なんですか!!!』

「え?」


 

 興奮する気持ちを落ち着け、どうにか喫茶店『Trees』まで足を運んだ。

「さて氷室さん。事情をお話ししていただきましょうか?」
「じ、事情っていったい何のことですか?」

 未だによく理解していない氷室さんに、さきほど言いそびれた噂について説明する。

「えー!私が不倫!?そ、そんなこと誰が言ったんですか!?」
「ですからそう言う噂になっているのですわ」

 結構な噂になっていたと思うが、どうやら氷室さんは全く知らなかったようだ。

「そんな、いったいどうして?」
「先ほどの男性ですわ。それに先ほどの男性の家に入って行くのをわたくしも一文字さんもしっかりと見ていますのよ!」




 

「よ、よ、よ、よ、よこしましゃんとですか!?」




 

 何を想像したのか、ぼんっと言う音が聞こえてきそうなほどの勢いで真っ赤になる氷室さん。

 ? ちょっと待ってください・・・横島さん?

「・・・つかぬ事をお伺いしますが、横島さんと申しますと美神おねーさまのところにいた、あの横島さんですか?」
「いつか屋上でトランペット吹いてたヤツだよな」
「? はい、そうですけど」




 

 沈黙。のち。



『ええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!』


 驚愕。


 

「ちょっ、ホントですの!?」
「まんま別人じゃねえかよ!」
「え〜っと・・・もしかして二人とも全然気づいてなかったんですか?」

『気づくわけないでしょ!!』

 全身全霊を込めて言い放つ。

 乾いた笑い声をあげる氷室さん。

「ふう・・・それにしても人間変われば変わるものなのですわね」
「そんなこと・・・ないわけじゃないですけど」

 氷室さんもはっきり否定は出来ないようです。そうでしょう。以前・・・と言っても一年以上も前ですが・・・お会いしたときは、正直ただの情けない軟弱なナンパ男にしか思っていませんでした。それが久々にお会いしてみれば、まんま別人のよう。以前の印象が強すぎたこともあるでしょうが、同一人物だとは夢にも思っていませんでした。

「じゃああの子どもはなんなんだ?」
「小学校に入るか入らないかぐらいの女の子と一緒にいるところを見たのですが」
「ああ、それは蛍ちゃんと言って横島さんの娘さんですよ」
「じゃあやっぱあの人結婚してんのか?」
「いいえ、結婚はしていませんよ」
「そうなのですか?この間の金曜日に若い女性とその娘さんといっしょにいるところを見たのですが?」

 『若い女性』の部分で不機嫌そうな表情を浮かべる氷室さん。しかし金曜日に何か心当たりがあったようです。

「たぶんベスパさん・・・横島さんの義理の妹さんです。もう一人の義理の妹さんと蛍ちゃんの4人でデジャブーランドに行くって言ってましたから。小学生くらいの女の子も一緒じゃなかったですか?」
「いえ、そんな子はいなかったと思いますけど、それより妹さん・・・義理の・・・ですか?」
「・・・蛍ちゃんのお母さんの妹さんたちです。その・・・蛍ちゃんのお母さん、ずいぶん前にお亡くなりになられて・・・すいません、これ以上は私の口からは」

 さっきとは違って、うつむきながら話す氷室さん。どうやら複雑な事情があるようですし、確かに他人がむやみに立ち入るようなことではありません。

「じゃあ、あの横島ってのは男手一つで育ててるのか?」
「ええ、だから時々ご飯作りに行ったりしてるんですよ。最近もお仕事が忙しかったみたいで、何度かご飯を作りに行ったり、横島さんの代わりに蛍ちゃんのお迎えに行ったりしてましたから」
「そうでしたの・・・」

 思わず全身の力が抜ける。隣を見ると一文字さんもテーブルに突っ伏しています。

 つまりはそう言うこと。別に私たちが心配していたようなことは全くなく、全ては私たちの早合点と取り越し苦労だったと言うことなのだ。

 まったく、心配して損しましたわ。

 どっと疲れが出てくる。しかしもう一方で良かったとも思う。


 

「なんだよ、別に新しいお母さんになろうとかって訳じゃあないんだな」


 

「え?お、お、お、お母さんですか!?そんな・・・私がお母さんなんて。そりゃあちょっとはいいかななんて思ってるんですけど・・・でも横島さんがパパなんですからママって呼ばれるほうが良いんじゃないかと・・・ぶつぶつぶつ」


 

 何気ない一文字さんの一言。なのに予想以上に反応する氷室さん。

 背中にいやな汗が流れる。

 そう言われれば、結局子持ちの男性と言うところは噂と全く同じなわけで・・・

 私達三人の間に流れた空気は、しばらく融けそうにありませんでした。




 

(横島忠夫)

「蛍とパピリオは?」
「寝かしつけといたよ。今日ははしゃぎ回っていたからねえ」

 どうやらお風呂から出るなり、二人ともすぐ眠ってしまったようだ。そういえば二人にお休みを言っていないが・・・まあいいか。

「義兄さん、お茶いる?」
「ああ、悪いな」

 ベスパは勝手知ったると、戸棚から二人分のティーカップを用意すると、魔鈴さんのお店で買ったオリジナルハーブブレンドという葉っぱを取り出す。ベスパは意外にお茶にうるさい。ポットにスプーン三杯分入れると、葉っぱをポットの中でよくジャンピングさせながらお湯を注ぐ。ふたを閉じてきっかり3分。カップに注がれた琥珀色の液体からは、ハーブと思われる心を落ち着かせる香りが漂ってくる。

 ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、お茶を楽しむ。

 懐かしい人の話題を交えながら。


 

「じゃあ、アタシもそろそろ寝ようか」
「カップは俺があらっとくよ」
「ん、よろしく」

 ダイニングテーブルから立ち上がるベスパ。そうしてキッチンから出ようとしたところで、思い出したように振り返った。

「そうそう、言い忘れてたけど今日は義兄さんがパピリオの隣で寝る番らしいよ」
「わかったよ」

 苦笑を浮かべる。

 妙神山にいるときからの習わし。蛍、ベスパ、パピリオ、そして俺の四人が集まったときは、必ず俺とベスパが蛍とパピリオを挟んだ4本川で寝ることになっている。蛍とパピリオがどちら側で寝るのかは、交替制らしい。

 そういえば独り寝をしたのはもういつのことだっただろう。眠るとき、隣に小さな温もりがあることが当然になってしまった。というよりその温もりがなければ、俺は安心して眠ることなど出来ないだろう。

「じゃあおやすみ、義兄さん」
「ああ、おやすみ」

 心の中で蛍とパピリオにも夜の挨拶をしておく。

 いい夢が見られるようにと見えない流れ星に祈りながら、カップを洗おうとして・・・

「まあ明日でいいか」





 明日はみんなに服でも買ってやろう。


 

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